最後の狩野派・芳崖と暁斎

最後の浮世絵師は誰かというと明治まで活躍した月岡芳年、豊原国周、揚州周延の三人があげられますが芳年は浮世絵というよりイラストレーターか劇画家のようなタッチになり、国周はあまりに役者絵の定型化した画風の印象が強く、周延は有職故実の将軍家行事や歴史画でどうも伝統的な浮世絵は歌川国芳までのように思えます。

その中で河鍋暁斎は唯一の歌川派と狩野派のハイブリッドの画家です。浮世絵は国芳譲りの戯画が得意で明治の文明開化を皮肉ります。シニカルでブラックなユーモアが効きすぎて投獄されたりもします。

狩野派の絵師達は明治以降は受注先が無くなり活躍の場を失います。最後の狩野派はと聞かれたら河鍋暁斎・狩野芳崖・橋本雅邦等があげられます。


◆狩野常信・猿猴図◆

狩野派初期の伝統的な絵、粉本主義で先達の手本を徹底的に模倣して均一のレベルを保つ常信は江戸前期木挽町狩野派を引き継いだ。

大きくは4段階の墨の濃淡で書いていて、輪郭線の無い没骨法(もっこつほう)で岩を見事に表現しています。猿は水面の自分を見ているのか、はたまた月を見て取ろうとしているのかわからないが水辺の空気感や湿度まで感じられる。

狩野派は室町・桃山・江戸時代を通じ親族や高弟を中心に権力者に寄り添い渡り歩きました。危機は狩野永徳と長谷川等伯が争った事例はありますが、初代の正信から400年という世界でも類を見ない世界最大にして最高、そして最長の絵師集団です。奥絵師、表絵師、町絵師以外にも各地の大名に使える多くの絵師が狩野派として活躍しました。

狩野派は権力者や大寺に書いた障壁画は大半は火事や戦で消失し、明治以降に注文主であった将軍家や大名もいなくなり、困窮して廃業していきました。また画一的と見られた画法は芸術的には価値が低く工芸品の類とみなされた事も残念な事です。

狩野派の絵は再評価されるべきで、美術の歴史の中で埋もれた天才達が数多くいます。


◆狩野芳崖・雲上観音図◆

文政11年1月13日(1828年2月27日) - 明治21年(1888年)11月5日)

芳崖の落款・・・・雅道(ただみち)印

芳崖の家系は狩野派の絵師で代々長府藩の御用絵師を務めました、木挽町の狩野家の塾頭を務めたり、橋本雅邦と龍虎と並び称されましたが、明治になり仕事が無くなり困窮しました。西洋絵画の技法を取り入れる事をフェノロサに託され復活しました。最後の狩野派であり最初の日本画家でもあります。

谷中周辺には河鍋暁斎と狩野芳崖のお墓があります。


◆狩野芳崖の墓◆


◆河鍋暁斎・坂に車◆

河鍋暁斎は1831年生まれで7歳で歌川国芳門下に入門するも2年で脱退し、10歳で狩野派に入門。この絵は坂に車・船頭多くして船山に登ると書いてあります、戊辰戦争を茶化した戯画で暁斎ではなく狂斎の署名があります、暁斎は明治3年10月に上野の長酔亭の書画会で新政府批判の書画を描き捕縛され100日牢に入れられています。


この事件以来は暁斎と画名を改めています。よってこの絵は明治3年以前に描かれた絵です。黒い軍服が薩摩軍で青い軍服は長州藩と思われます。維新後の政治が迷走しているのを揶揄しているのかもしれません。暁斎は狩野派ではトップクラスの実力で維新後も特にプライドもなくどんな絵でも描いたので、大衆画家の第一人者となりました。明治期に有名な日本政府お抱え建築家のジョサイア・コンドルは暁斎を気に入り、自ら弟子になり日本画を学びました。北斎がいない中で日本で一番の画家と海外に紹介されています。

河鍋暁斎は近年戯画で人気が上がり知名度も増してきました。しかし今一歩知られていません。幕末は北斎を始めとして浮世絵は海外で評価され世界的なブームとなりました。暁斎はこの世代より後で浮世絵では後れを取りました。

暁斎は肉筆画を数多く書いていますが個人の手元に渡り公には知られていません。かといって後世に残る襖絵や障壁画は残すこともできません。北斎の富岳三十六景や広重の東海道五十三次、国芳の相馬の古内裏や水滸伝等のインパクトのある浮世絵は出していません。文明開化を揶揄するような作品は印象には残りますが、世界的な作品とまではいきません。明治時代の大量の作品はいまだに民間をさまよっています。ネットオークションで本物と思われる北斎の作品は何年かに一度くらいしか出ませんが、暁斎の本物は大抵1作品は出ています。

◆河鍋暁斎・龍頭観音図◆

狩野芳崖はフェノロサの助言で狩野派と西洋画の技法を程よく取り入れた日本画を完成しました。河鍋暁斎は浮世絵と狩野派の技術で売れる絵を描き続け、狩野派絵師が没落していくのを横目に注文を取り続け書き続けました。

この絵はやつし絵の一種で龍頭観音に見立てて、注文者の息女を描いたものと思われます。推測ですが、大店のご息女が若くして亡くなり、龍頭観音となり天に召されていった様を暁斎に描いてもらったのではないかと思います。見事に狩野派の龍の上に歌川派の浮世絵風の女性が乗っています。これこそハイブリッドの絵ではないでしょうか。


河鍋暁斎のお墓です、場所は下町観光で有名な谷中銀座の近くにあります。谷中銀座ゆうやけだんだんから約10分くらいの距離に瑞輪寺にありますが、墓地が広すぎてどこにあるかお寺の方に聞かないとわかりません。暁斎の墓には代名詞である蛙の石像がのっかっています。河鍋家は健在ですので手入れも行き届いています。


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