崇福寺・黒田官兵衛の赤い墓

官兵衛の墓はなぜ赤い?人を呪わば穴二つ城井鎮房の祟り

黒田官兵衛・長政親子は全国的に有名で人気がありますが、それ以降の黒田家は今一つ地元での愛着がありません。ひとつは黒田家が幕末に第二次長州征伐というタイミングで幕府からの詮議を受けて加藤司書や月形潜蔵・勤皇派を大量に処刑しました。

幕府が第二次長州征伐を前に長州に肩入れしている福岡藩を叱責した為と、加藤司書が建築を指揮する犬鳴御別館が藩主を幽閉する為に作られたと密告され藩主の黒田長溥が激怒しました。

その後薩長が同盟し情勢が変わり今度は佐幕派3人の家老を処刑して、戊辰戦争の頃には新政府軍に兵を出すもろくな人材がいなくなっていました。

それに加えて明治になり大規模な偽札事件を起こし、福岡藩の高官がズラリと関与していて藩知事の黒田長知にまで科が及び黒田家は閉門し知事を罷免されました。福岡藩は正式には廃藩置県までもたず、改易処分と同じ扱いになっています。


戦国時代に話は戻りますが城井谷城の城井鎮房は秀吉の九州征伐で帰順するも九州征伐にはさしたる貢献はしませんでした。息子の朝房が先鋒隊で活躍し秀吉が恩賞で伊予国へ移封の朱印状を出します。ここで移封を受け入れれば大大名への道も開けたかもしれないのに代々続いた領地に固執して断ります。

ここで新たな鎮房の領地を含む豊前の領主になった黒田官兵衛と対立します。官兵衛が肥後の一揆の鎮圧の応援にでかけているのを見て、地元でも一揆がおこり、長政が鎮圧する隙を見て鎮房は城井谷城を奪い返す。

黒田長政は籠城した鎮房を攻撃するも撃退される。様々な工作のうえ和議するも官兵衛から城井家抹殺の秘策を授けられる、鎮房を娘と長政の婚姻話で中津城へおびきだして暗殺する。

城井鎮房とともに来た家臣達は控えていた合元寺で一網打尽に殺害されます、息子の朝房は黒田官兵衛が一揆の鎮圧と称して連れ出し惨殺、娘の鶴姫は磔にする。

今日も残る合元寺の赤壁はいくら白く塗り替えても赤く染まるので赤く塗り替えたそうです。話はこれで終わらず、その後鎮房の亡霊が中津城に出没し長政を祟ります。


黒田如水(1546-1604)

黒田如水お墓ですが他のお墓は花崗岩で作られています、如水のお墓だけは安山岩質凝灰岩で作られています。文字が赤いのは岩に文字を彫り、朱漆の塗料を塗った後に金箔を貼るのですが、金箔が剥げてこのように赤い文字になったのではないかと言われています。

もしかしたら赤壁の伝説のようにいくら金箔を貼りなおしても赤い色がにじみ出てくるので赤壁のように全体を塗ると郵便ポストと間違われるので赤いままにしているのかもしれません。信じるか信じないかはあなたしだいです。

官兵衛のお墓は創建当初のもので碑には聖福寺第百九世住持の景轍玄蘇(けいてつげんそ)

の撰文が刻まれています。官兵衛の一生の出来事が石柱の四面にズラリと書かれています。

写真の部分は明智光秀の本能寺の変から中国大返し、山崎の戦いの下りが書いてあります。

漢字ばかりですが、単語は読みやすいので読みつないでいくと歴史に詳しい人なら何が書いてあるかわかるので双眼鏡を持っていき時間をかけて見るのをお勧めします。


黒田長政(1568-1623)

長政は官兵衛が荒木村重により有岡城に幽閉されていた頃、信長に寝返りを疑われて一人息子の長政を殺すように秀吉に命じました。

秀吉は確信があったのか竹中半兵衛とともに長政を匿います。

長政は官兵衛と違い、策士と言うよりは勇猛な武将ですが関ケ原では西軍の小早川秀秋や吉川広家を寝返らせています。

秀吉が官兵衛に与えた恩賞は12万石と働きに比べ少ないものでしたが、家康は長政に52万石与えます。

上の写真の長政のお墓は建て替えられたものですが、実は創建当初と思われるお墓の一部がここに残っています。

これが倒壊した長政の最初のお墓の上段部分です、また周囲にはがれきのような石がありこれも一部と思われます。どこにも表示がないのですが、2005年の福岡地震で倒壊したものと思われます。

福岡城本丸表御殿から移築


名島城唐門の移築

官兵衛の正室 光姫(1553-1627)

このそばに黒田熊之助のお墓もありましたが撮影するのをわすれていました。

熊之助は長政の年の離れた弟です。官兵衛は側室を持たず、光姫は二人の男児を生みます。

熊之助は慶長の役の時に兄に会いに朝鮮に渡ろうとしますが暴風を受け舟が沈没し帰らぬ人となります。もし生きていれば長政を補佐し、直系が絶えた時には藩主を出して血筋をつないだことでしょう。

6代目福岡藩主までは血筋で世襲しますが、それ以降は徳川家や島津家から養嫡子を迎えています。


◆幕末の福岡藩の動き◆

時代を完全に見失ってしまい気がついたら有能な人材が誰もいなくなってしまいました。政変で長州征伐が始まると西郷隆盛と福岡藩の加藤司書は徳川慶勝に謁見して征長軍を解散させる事に成功しました。筑前勤王党の名声も上がり勢いが増しました。薩長同盟の実現に向けての密談も行っています。第二次長州征伐が決まると第一次長州征伐の斡旋が否定される形になり佐幕派が復権し11代黒田長溥(ながひろ)は勤王派の家老、加藤司書を切腹させ筑前勤王党を粛清しました。その後、新政府側が有利になると佐幕派重臣を切腹させ勤王派に転向し、鳥羽伏見の戦いでは新政府軍に与しました。この加藤司書は黒田官兵衛が有岡城に幽閉されてたおりに荒木村重の家臣でありながら官兵衛の脱出に貢献した人物の子孫です。




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