丸亀城の石垣

【丸亀城の歴史】

丸亀城は1602年、高松城を拠点とする讃岐国の領主生駒親正(いこまちかまさ)により支城として築城されるが1615年一国一城令により廃城となる。1640年4代藩主生駒高俊は藩政をめぐり重臣たちのはげしいお家騒動で改易、出羽国矢島へ転封となる。1643年築城の名手である山﨑家治が幕府から銀300貫を得て、参勤交代も免除され西讃岐の領主となり丸亀藩を立藩し丸亀城を再建に着手する。1657年三代で嫡子無く断絶する、1658年京極高和が丸亀藩主となり1660年天守が完成する。七代続き廃藩置県。江戸時代は金毘羅参りが流行し、藩財政を助けました。

【高松城の無血開城】

無血開城と言えば江戸城を思い浮かべますが、高松城も戊辰戦争の最中に無血開城しています。丸亀藩は新政府側につき、土佐藩(板垣退助)と共同して高松城を責めますが朝敵となり驚いた高松藩は慌てて家老二人に切腹させて藩主松平 頼聰(よりとし)と前藩主を謹慎させて無条件降伏します。水戸藩の流れをくむ藩主なので逆賊になった事を意味する錦の御旗の威力は最大の武器だったのでしょう。


徳川慶喜も大坂城から脱出し江戸に戻って謹慎します。1868年1月、徳川慶喜は家臣を集め「最後の一騎になっても退くことはゆるさない!」と激をとばましたが、近代化された新政府軍の前に敗北すると、開陽丸で松平容保など数人だけ引き連れて江戸に逃げ帰りました。高松藩はすでにこのことを知っていて、開戦するのは無意味で徹底的に許しを請い、家老二人の切腹だけで、完全降伏しました。戊辰戦争はこれから奥羽越列藩同盟など東北に舞台を移していき函館で終結します。新政府に武力抵抗した藩の結果から見ると、丸亀の恩人とも言える家老二人の首でだけで済んで正解でした。ここでよく考えたら家老が切腹している時点で無血ではありませんね。                           


幕末の四国は四賢候と呼ばれる藩主、宇和島藩から伊達宗城、土佐藩から山内容堂が出ています、松山藩と高松藩は親藩でもあり旧幕府側につき朝敵となりましたが土佐藩は穏便に降伏させています。幕末の四国の英雄と言えば坂本龍馬ですが、あまり四国内部のその他の話は歴史書やドラマにはなりません。四国の郷土史を調べてみると面白い話が出てきます。


◆丸亀城基本データ◆

【家格】城主 【分類】外様【石高】5万石【歴代藩主】山崎家3代→京極氏7代

【立藩】高松城の支城として使用していた生駒家の改易後に山﨑家が入り丸亀藩を立藩

  立藩1641年~廃藩1871年


◆丸亀城の主な石垣◆

写真の石垣の積み方「打ち込みハギ」は、割って加工された石を用いて積み上げた石垣です。写真のように各段が一列に配列されている(横目地が通る)積み方であり、整層積みや布積みと言い、横目地を一部で乱した積み方を布積み崩しと言います。丸亀城の石垣は主に山﨑氏の時代に築かれました、石垣全体の角には崩れないように「算木積み」、長方形の石を90度くらいの角度で先端を重ね交互に上に置いていきます。

この他にも丸亀城には生駒氏時代と思われるほとんど加工していない自然石を使用した「野面積み」や見せる要素が強い、精巧に加工した「切り込みハギ」がありさながら石垣の博物館のようです。

◆石垣の刻印生駒車について◆

石垣には数種類の刻印がある石があり、この石は下の方の分かりやすい場所にありました。この分度器のような刻印は高松城の支城として丸亀城も支配していた生駒氏の刻印です。おそらくは生駒氏が絶頂期に天下普請で大坂城の為に切り出した岩が使用されずに後年山﨑家治の手配で丸亀城の石垣に転用されたのだと思います、なんとも皮肉な石です。

◆Zマークの松平家の石はどこにいった◆

丸亀城の石垣にはいろんな刻印があります。田・井・左・九・・・・マークはパソコンで変換できない形ですが、わかりやすいマークで(実際は少し字が違います)

Z→ゼットに見える刻印、越前松平忠直 砕石地芦屋、この刻印は現在土砂崩れで埋没

十→十字架のような刻印、森 砕石地 与島

㊧→左に丸のような刻印、有馬、砕石地 瀬戸内

九→九のように見える刻印、細川忠興 砕石地 芦屋 塩飽島(丸亀市本島)

㊉→丸に十は言わずと知れた島津家の家紋です、砂土原島津家、砕石地 芦屋

井→鍋島、砕石地 西宮(甲山)


天下普請でもないこの丸亀城石垣になぜこのような各大名の刻印がある石があるかと言いますと、築城の名手と言われた山﨑家治は大坂城築城時の使用しなかった石を中之島の基礎として再利用しました。自分の自由にできる石を隠し持ち幕府の命を受け丸亀城を築城する際に、たくさんの石を掘り起こして丸亀まで運び、石垣に使い築城しました。それと考えられるのは海防策として幕府が天下普請に準ずるような配慮をしたのかもしれません。


◆石垣にかかわる悲しい伝説◆

石垣についてはこんな逸話があります、石垣が完成して殿様が「この城壁ならば飛ぶ鳥以外は越えられまい」とご満悦でしたが、築城に従事していた羽坂重三郎なる男が「鉄の棒で登れます!」と言い、すいすいと城壁を登ってしまいます。殿様自慢の石垣を簡単に登る男を敵に漏洩すると大変な事と、築城名人の面目丸つぶれになるのを恐れて、その男を二の丸の井戸の内部を探らせる口実で井戸に入らせ上から投石して殺してしまいました。この話の原本は見つかっておらずいろんなパターンが存在します。芭蕉の句で「もの言えば唇寒し秋の空」・・この教訓が当てはまるような気がします。でもいくらなんでも築城の必須事項という貴重な井戸で人を殺すことはあり得ないと思います。

丸亀城の石垣は高さでは日本一ですがひな壇状に四段に分かれています。確かに武具をつけず軽装で1段づつ登ればロッククライミングの要領で登れないこともないなと思いました、しかし敵が上から投石したり、発砲したりしたら登頂は無理でしょう。

石垣の角は上写真のように長方形の石を交互に組み合わせて補強しています。(算木積み)

桜は七分咲きで石垣と写せばきれいで絵になります。切り込みハギ、打ち込みハギ、野面積み、算木積みの四つを覚えていればあなたも立派な石垣マニアです。


◆城の内部・構造◆

入城しました。この床を見てください、築城当時の床がそのまま残っていて、肌触りがとてもよく材木の息遣いまで聞こえてきそうです。ちなみに姫路城の床は一部を残して修復して張り替えてあり、丸亀城の床からしたら無機質な感じがします。壁は敵からの防御の為に太鼓壁で厚く仕上げられています。隅には非常の際に打ち抜いて大砲を打つ穴、大砲狭間(おおづつさま)もあります。ちなみにここは重要文化財で国宝ではないのですが、過去には国宝であり国宝の基準が変わって重要文化財に格下げされたようです。私的にはこれだけ昔の部品や部材がそのまま残っているので国宝に認定すれば良いのにと思いました。


四隅の隅柱は二本の柱で補強されてなおかつ火打梁を斜めに通し水平方向の強度を高めています。この技法は現在でも木造建築に使われています。

◆丸亀城人柱伝説◆

ここで築城に関するもう一つの寓話、シトシトと雨の降る夕暮れ、人柱を探していた人夫達は豆腐売りが豆腐を売っているところを攫い、予め用意していた穴に投げ込み生き埋めで人柱にしました。それ以来雨の降る夜に豆腐売りの怨霊がト~フ~ト~フ~と泣き続けるのでした。この話も疑問点があります、くずれやすいトーフの売り子で人柱を立てても本末転倒で私なら火消とか相撲取りとかを狙います。


天井部分、材木の種類は栂・檜・松です、この城が1660年にできた事は最上階南東隅の壁面内部より発見された板札により1660年に完成したと特定されました。ここで丸亀うどんが食べれたら最高です。

それでは最後に高松城跡をご覧ください。


ここから見ると普通の城跡のようですが・・


◆鉄道敷設と高松城◆

手前がことでん琴平駅ホームより、石垣とホームが一体化したような駅です。高松城は生駒氏がお家騒動で出羽矢島に飛ばされて、松平氏が入城します。高松城は水戸光圀公のお兄さんである松平頼重により改修されました。荒木村重で有名な有岡城はJRの鉄道敷設の為に破壊されていて一部しか残っていませんが、高松城は石垣がことでんホームの一部になるくらい隣接する形ですれすれに鉄道敷設してあり、よく残してあります。


ヤッターマンラッピング電車、やたらと目立っていました。

◆生駒氏の奇跡・明治維新◆

さて高松城、丸亀城を支配し讃岐に君臨した後に出羽国矢島1万石へ転封になった生駒氏はその後どうなったかといいますと、生駒高俊は息子二人に8千石と2千石に分知した為、大名から交代寄合(旗本の一種)となった。幕末から明治にかけては奥羽越列藩同盟には加盟したものの勤王に転向し新政府軍に味方する。高直しの際に実質的の内高で1万5200石と判明し、更には明治維新の功労者として章典禄1000石を貰い矢島(やしま)藩を再立藩し大名に復帰する。初代高俊が分知して廃藩して200年以上たっていて奇跡の再立藩と言ってよいでしょう。

◆徳島城の石垣◆

四国は面白い石垣の宝庫です。今は公園になっている徳島城跡は石垣の上で花見ができる大きな敷地があり市民の憩いの場所となっています。場所もJR徳島駅に隣接し歩いて15分くらいで天守跡にいけます。ここの石垣は違和感があり阿波の青石が使用されていて、石垣が好きな方にはおすすめします。

◆徳島藩基本データ◆

1600年~1871年 家格 国主 外様 歴代藩主 蜂須賀家14代 藩祖 蜂須賀家政

藩図 徳島県、淡路島 18万6750石→25万7000石


◆阿波の青石について◆

独特の雰囲気がある緑泥片石です。

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