文禄慶長の役 やきもの戦争
592年~1593年の文禄の役と1597年~1598年の慶長の役を合わせて文禄慶長の役と呼び、秀吉が大明帝国の征服を目論み秀吉の死で日本軍が撤退して終結しました。朝鮮には服属国として協力してもらう予定が、拒否されて朝鮮と戦う事になり、朝鮮は明に助けを求めて連合軍との国際戦争となりました。
この戦いでは西日本各地の大名が動員させられ、多くの犠牲者、戦死者をだし泥沼化し勝敗もつかずに終わり、双方国力が衰える結果となりますが、一方で日本軍の西国大名は只では日本に帰らず、多くの陶工や朱子学者などを捕虜として日本に連行しました。
京都に耳塚という一風変わった供養塔がありますが、戦功を証明する為の首を持ち帰るのが困難な為、鼻や耳をそいで日本に送るようになり二万人の犠牲者の耳と鼻が埋められています。軍人だけではなく一般人や味方の死体からも耳や鼻をそぎ落とし水増しして送っていました。
焼き物においては先進国である朝鮮の陶工・技術者を連行した各大名は領内に住まわせ厚遇し陶器を作らせました。島津義弘は薩摩焼、鍋島直茂は伊万里焼、有田焼、毛利輝元は萩焼、黒田長政は高取焼。現在でも有名な焼き物はここから発展しました。
先日親戚のおじさんから頂いた薩摩焼と思われる壺、サイズは幅30㎝、高さ32㎝です。
今は取り壊している鹿児島の家にあった壺で当初は100年以上前の黒くなった梅干しが入れられていて、梅干しを取り除いても5年くらい毎年塩を吹いていたとのこと、この壺のほかにもその家から盗まれて警察から戻ってきたけれど、盗んだ人が浴槽で保管していて釉薬がはがれたといういわくつきの壺もありました。
長州藩、佐賀藩、福岡藩、薩摩藩については幕末、実際の表高にくらべ自助努力により内高は高く、佐賀、長州に至っては倍くらいの内高があり、この差が倒幕の力につながったと考えられています。佐賀、薩摩は近代化に一早く取り掛かりました。佐賀藩は反射炉を築造し日本初の鉄製大砲を製造した。また実用蒸気船凌風丸竣工に成功した。薩摩藩は蒸気船では佐賀藩より先に雲行丸を竣工したが実用には遠かった。反射炉、溶鉱炉、ガラス工場、蒸気機関製造所など集成館と名付けた。現在も遺構が残っていて尚古集成館という博物館で業績が確認できます。
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