麒麟がくる 光秀と福知山城




明智光秀と言えば、戦国時代最大のヴィラン、アメコミではジョーカー、プロレスで言えばアブドーラ・ザ・ブッチャー、フリッツフォン・エリックといったところか。戦国時代の勢力図を書き換え、長く続くかもしれなかった織田政権を一気に破壊した。ジョーカーのようなヴィランは嫌われ憎しまれるが、一周回って主役のバットマンより愛される。バットマンが主役のようで実はジョーカーの物語を見ていたのだと気がつく。


来年の大河ドラマは明智光秀の「麒麟がくる」で、どこかのビールメーカーの宣伝みたいな題名です。明智光秀は京都支配の一連で天正7年(1579)丹波・丹後両国を平定します。

平定した丹波国に亀山城・周山城を築城し、横山城を改修して福知山城に改名します。


ここでの光秀の領内経営は見事なもので、城下町の建設、由良川の堤防建築したり、領地経営においてすぐれた手腕で成果を発揮しています。一方では比叡山焼き討ちで殲滅作戦を積極的に実行したり、本能寺の変を引き起こしたり2面性のある人物です。

本能寺の変での計算違いは細川幽斎に出兵を拒まれたことですが、幽斎は明智光秀の性格を快く思っていなかったに違いありません。友人のように接してはいても油断はならない人物と評価していたのでしょう。ちなみに筒井順慶・細川幽斎は独立した大名であり、明智光秀の家臣ではなく与力の立場でした。


福知山城は天守は現存せず、昭和61年に復元されていますが、土台の石垣は残存しています。城跡ファンにはたまらないのが、野面積み(のづらづみ)で自然石を巧みに組み合わせて、その素材に旧勢力の寺院を破壊し石垣に組み込んだ五輪塔や宝篋印塔などの石材を転用しています。


横山城と呼ばれていた簡素な掻上げ城を拡充整備して福知山城と改めました。城主が交代する中で1600年頃には近世城郭として完成しました。由良川やその支流を堀として、自然の丘陵を利用した堅固な城郭でした。また天守閣は初期望楼型と呼ばれる古い様式で建築され、明治6年の廃城令で取り壊されましたが、石垣は残りました。

この写真では寺社から簒奪した石材が角の算木積みに多く使用されています。福知山城はJR福知山駅から歩いて10分くらいの位置にあり、少しの時間で立ち寄る事が可能です。


☆算木積みとは・・石垣の角の部分に使われる崩れにくくする技法です、石材を平らにし直方体にした石材を交互に積みます。


石垣角の部分のアップです、なんとなく算木積みのイメージが掴めたでしょうか?

見ればみるほど面白い石垣で、簒奪されたお寺の悲鳴が聞こえてくるようです。


大井戸・・豊磐井(とよのいわい)井戸の深さはなんと落ちたら最後の50m

朽木氏の時代に人力で掘ったという驚異的な井戸、当時の技術の高さもさることながら、城郭における水の必要性がひしひしと感じられます。



本能寺の変の一番槍、安田国継で通称安田作兵衛です。江戸時代は徳川家につながる絵はご法度になっていましたが、規則をかいくぐり変名や時代を変えてみる人にはわかるように制作されていました。安田国継は織田信長に一番槍で手傷を負わせ、更には森蘭丸を討ち取る功名をたてています。この人物はこの後数奇な人生を送りますが1597年6月2日にほおにできた出来物が悪化して慶長2年(1597)6月2日に亡くなりましたが信長は天正10年(1582)6月2日と同じ日に亡くなってますので信長の祟りと言われました。信長の死因は自刃か焼け死なので森蘭丸の祟りならともかくそれはないと思います。


本能寺の変の真相はいまだに確定していません。確たる証拠も無いので、憶測だけでいろいろな説が飛び交い大喜利状態です。以下は私が推理した内容でなんら真実ではありません。

家政婦は見た!本能寺の変の真実

1582年、本能寺の変が起きる数日前、明智光秀は細川藤孝と相談していた。

光秀「最近信長様が俺に秀吉の毛利攻めの応援を命令したんだよね・・」

細川「えーっ!それってヒデのパフォーマンスじゃん!」

光秀「そやねん!ヒデのやつ、信長様に甘えて自分をかわいがってもらおうと・・」

細川「やめときやめとき!」

光秀「断ったらどんな仕置きされるかわからんがな!」

細川「しゃーけど、ノブ様は本能寺でのほほんと茶会開いてんのやろ」

光秀「それやがな!ヒデの応援にのったふりして信長様を本能寺でしばいたろか!」

細川「シバカツ兄さんもおらんしええけど壁に耳あり障子に目ありやで。」

光秀「冗談やがな、でもそんときは頼むで」

その時障子の裏で聞き耳をたてていた細川家の家政婦はさっそく早馬と船を飛ばし

中国方面に向かった、そこには京都を追放された足利義昭と荒木村重がいた

早速、黒田官兵衛を呼び寄せ謀反が起こる兆候があり、早々に毛利攻めを

切り上げ中国大返しの準備をせよとけしかけた。

黒幕は足利義昭で光秀に事前に信長暗殺命令を密勅をエサに出していて、自らは光秀の養護のもとに将軍復権を目論んでいた。それなのに情報を秀吉にリークしたのは明智が京都を掌握して味方を増やしても実力者の秀吉が残れば思い通りにならない。毛利と和睦したと見せかけて京都に引き返すところを毛利と明智で挟み撃ちにして全滅させる作戦をたてた。

毛利側の外交僧である安国寺恵瓊にその作戦を伝えた。秀吉は安国寺恵瓊は謀反の件は知らないと思い、戦を毛利側に破格の条件で和睦で終わらせた。安国寺恵瓊は謀反が確認できた時点で追討作戦に打って出ようとしたが明智光秀は誰も味方になろうとはせず、頼みの細川まで動かない。細川藤孝は近在の武将まで味方しないように根回ししたようだ。

細川「ミッチーごめん、これはやっぱりあかんやつや。万が一ノブ様の首が

とれんなら俺たち終いやで」

こうして予想外の高速中国大返しと秀吉が流したデマ、

秀吉「信長様は生きてはるで!」疑心暗鬼を生じた安国寺恵瓊は動けず

さらに光秀に従う武将はいなくなった。

実は秀吉が作った本能寺の秘密の抜け穴は爆破されて分からくなり、秘密の地下室で信長は生きて救助を待っていたが、助けに来たはずの秀吉に殺害されていた。

・・・実はシナリオは秀吉の部下黒田官兵衛がしかけた光秀おびき出し陽動作戦だった。黒田官兵衛が足利義昭に情報を流し光秀に謀反を起こさせたのであった。

秀吉「官兵衛お主も悪よのう(俺が天下を取ったら左遷してやる・・・)」

官兵衛「秀吉様こそ・・(次は俺が天下を取る番だ)・・」

  ・・・・・・ 完 ・・・・・・

実際のところ光秀の人生は謎が多く、前半生はほとんど判明していませんし、謀反の動機も本人野望説や黒幕説など誰もわかりません。現実的に見て取れるのは、光秀は権謀術策に優れていて、松永久秀や荒木村重を上回る変節漢であった。秀吉との出世競争では後塵を拝した。本能寺の変後に細川や筒井が光秀陣営に加わらなかった事は日頃から人望が無かった証であり、ましてや主殺しの大悪人を支援するものは多くはなかった。かくして秀吉は主殺しの敵討ちの大義名分で大軍勢となり山崎の戦いで勝利した。

織田信長が軍事的に孤立した状況で本能寺に、後継者の信忠も近隣の妙覚寺に滞在していた。秀吉毛利攻めの応援部隊として明智光秀が支援に向かう手筈であったが本能寺を襲い

ました。絶対的に信頼していた部下に裏切られた信長親子は非業の死を遂げました。

黒幕はいないと仮定して、秀吉はもちろん自分から要請した毛利攻めの支援で京都がどのような状況になるかは把握していたと思います。引金を引いたのは秀吉であることはまちがいありません。

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