湊川の戦い・楠木正成公
明治維新の原動力となった楠木正成公、いかにして精神的支柱となったのか。
後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府を滅ぼした楠木正成、後醍醐天皇は建武の新政を実施する。足利尊氏が背き新田義貞、楠木正成と対峙するが湊川の戦いで敗れる。後醍醐天皇は吉野に逃れた、ここから北朝・南朝に分かれた南北朝時代が始まりました。
湊川神社・明治五年創建、初の別格官幣社・・国家に貢献した人臣をご祭神とする神社
大楠公御墓所(嗚呼忠臣楠子之墓)1336年5月25日・・大楠公のお墓です、この神社の境内、本殿裏手にある敷地にて自決されました。
徳川光圀公の書による嗚呼忠臣楠子之墓
時代劇風に言えば水戸黄門が助さんに楠公のお墓を建立させて自ら文字を書いた。
裏面には朱舜水の作った賛文を岡村元春に書かせてこれに刻ませた。
幕末の尊王攘夷・勤王思想に影響を与えた、長州の吉田松陰もたびたび訪れこの拓本を掲げ松下村塾門下生に叩き込んだ。明治維新の功労者、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・坂本龍馬・三条実美等々みなこの墓の前にぬかづいて忠臣報国の至誠を誓い国事に奔走した。
大楠公殉節地(史跡・楠木正成公戦没地)
大楠公が弟である正季卿以下御一族と七生滅賊を誓われてお互いを刺して自決された。
この地は非公開ですが神職の方と同伴なら入れると聞き、社務所にお願いして入場しました。敷地は藪になっていて結界が張られている場所が旬節の地と教えてくれました。
坂本龍馬が詠んだ句「湊川に詣で 月と日の昔を忍ぶみなと川流れて清き菊の下水」
社殿は明治に創建されたものの戦災で焼失し、昭和27年に復興新築されました。
こちらは表神門の東側にある大楠公御墓所の入り口です、見落としがちな場所にあるのですが、かならずおまいりしましょう。
楠木正成が維新の精神的支柱になり原動力となった理由納得されましたでしょうか?
吉田松陰の著書、留魂録には楠子の墓の賛文に影響された記述があります。
仙人みたいな銅像は平櫛田中作の徳川光圀公像、水戸藩は幕末において徳川斉昭による尊王攘夷思想が政局に影響を与える。自分の息子である徳川慶喜を次期将軍に押す一橋派と南紀派の対立を生む。攘夷派の中心人物です。
徳川光圀がいかにして諸国漫遊の水戸黄門になったのか、大日本史の編纂の為に諸国に資料をあつめに家臣を奔走させ、助さん格さんのモデルになった人物も諸国に派遣した。
徳川光圀公は楠木正成を敬い尊王攘夷の精神を後世に伝え明治維新の原動力の一人となり明治後の諸国漫遊の物語は大人気となりました。徳川光圀は実際には漫遊した記録はありません。
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