葛飾北斎伝・飯島虚心
飯島虚心は北斎の奇人変人のイメージを作り上げました。
葛飾北斎の生涯はドラマ・小説・漫画で描かれる事も多いのですが、そのほとんどが飯島虚心の葛飾北斎伝から引用されています。この本は飯島虚心が北斎死後、40年後にその当時生存している北斎の関係者を訪ね歩き聞き書きをして一冊にまとめた本です。
飯島虚心本人も面白い人物で榎本武揚と回天丸で江戸湾を脱出して新政府軍と箱館戦争で戦い、五稜郭陥落時に捕虜になった経歴をもつ異色の作家です。
虚心が北斎の遺族を捜すもすでに不明で誓教寺のお墓にも線香の一本の煙もたっていない。狂言作者の四方梅彦、浮世絵師で北斎門下の露木孔彰、2~3回北斎に会ったという考証家の関根只誠、戸崎某氏、その他は文献や手簡から材を得ています。
画工北斎奇人也。年九十而移居九十三所。いきなりの奇人扱いで始まりますが、北斎が亡くなって40年後の情報でリアルタイムでの情報ではないので正確さ定かではありません。
実物大で再現された北斎の達磨図、畳120畳の大きさで福岡市博物館の天井から吊り下げられています。文化十四年西掛所の東庭にて大画の達磨を大書きする。これにつきましては最後に詳細を書き記します。
すみだ北斎美術館の複製作品、「須佐之男命厄神退治之図
北斎の部屋を再現している。北斎伝より引用します。炬燵を背にして、布団を肩にかけ筆を採り描いているのは北斎翁でその傍らで見ているのは娘の阿栄です。室内は荒れ果てていて画帖、扇面の儀は堅くお断り候、三浦屋八右衛門と書きたる紙を貼りてあり。阿栄の傍らの柱には蜜柑箱を少し高く釘づけになして、中には日蓮の像を安置せり。火鉢の傍らには佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓の竹の皮など、取り散らし物置と掃溜めと一様なるが如し。
誓教寺にて
全体像です、覆い堂で守られていて上部には「北斎翁墓」のプレートがあります。通常は向かって右側面の扉は開いていないのですが開けて見せてもらいました。何があるかと言いますと、北斎さんの辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれています。また左側面には北斎さん・奥さん・娘さんの法名と亡くなった日が彫られています。
葛飾北斎伝によれば
南総院奇誉北斎信士 嘉永二巳酉歳四月十八日
性善院法屋妙授信女 文政十一戌子歳六月五日
浄運妙心信女 文政四年辛丑歳十一月十三日
祠堂金五百疋 白井多知女
ここには阿栄さんではなく別の娘さんが眠っています。先日NHKで宮崎あおい主演で「眩くらら」がありましたがよくできたドラマで葛飾應為(阿栄)の晩年は親戚・縁者をたらいまわしになったあげく行方がわからなくなりました。
画狂老人卍墓
正面には「画狂老人卍墓」と大書きしてあり下部の楚石には生家の川村氏が刻まれています。(写真では右下のお供え物で隠れています。)北斎さんは葛飾郡本所割下水で生まれ幼名は川村時太郎です。その後、 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となりそののち、実子に家督を譲り中島家を出ます。
このお墓ですが誰が建てたのかははっきりしていません。亡くなってすぐ建てられたのではなく当初は同寺の仏清墓に父と一緒に葬られていてその後に改葬されたそうです。
この墓を建立したと思われる人物は北斎次男で他家に養子に出した加瀬崎十郎、その娘の白井多知、またはひ孫(崎十郎の孫)の加瀬昶次郎、この墓はいずれにしても北斎さんを誇りに思う子孫が建立したのはまちがいありません。
右横の扉を開けてみた写真です、非常にわかりにくいのですが、辞世の句が書いてあります。ひと魂でゆくきさんじや夏の原、拓本がほしいくらいです。浅草聖天町の長屋で阿栄さんに看取られ亡くなった北斎さんの命日も近く、ここ誓教寺では4月18に北斎忌が開催されます。法要と誓教寺所蔵の北斎さんの作品が公開されるそうですが遠方なのでいけず残念です。
飯島虚心の北斎伝より葬送の様子
翁死に臨み、大息し「天我をして十年の命を長ふせしめば」と言い、暫くして更に「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と言い終りて死す。
実に四月十八日なり。歳九十。浅草の誓教寺に葬る。翁の死するや、門人および旧友等、各出金して、葬式の礼を行いたり。棺槨などは粗製のものなりしが、見送りの人々の中には、鎗、挟箱など、もたせたる士もありて、凡百人程にて、誓教寺に赴きたり。古来裏店より鎗箱など持たせて、見送りし葬礼はかってこれなきこととて、近隣の者共、大いに羨みたり。また翁が死せし時、門人の他に、柳亭種員、四方梅彦など、最もよく後事を担当し、周旋いたらざるなし。
誓教寺にて富士山の方向を向く北斎さんと記念写真、ここ誓教寺は画狂老人卍墓があります。明治の浮世絵研究の先駆者である飯島虚心の葛飾北斎伝(鈴木重三校注・岩波文庫)を参考に解説します。飯島虚心の本は明治二十六年刊で北斎さんが亡くなってすでに40年は経ち発行されています。当時生存していた北斎さんの縁者・関係者から聞き書きしてますので北斎さんの奇行ばかり目立ちますが大変重要な資料です。写真はお寺の方に許可を取っています。
愛知県名古屋市中区門前町1-23に今もあります、浄土真宗のお寺、本願寺名古屋別院には文化14年(1817年)に葛飾北斎が120畳の紙に大達磨を描いた記録が残っています。この大達磨は保管されていたものの戦災で焼失しています。以下挿絵は飯島虚心の葛飾北斎伝からの抜粋です。東都の画工葛飾北斎が西掛所の境内で大達磨を即書きすると各書店で宣伝すると当日一目見ようと群衆が押しかけました。西掛所本堂の東北にある集会所の前の庭に席を設けて、杉丸太でませ垣(低い垣根)を組んで、120畳の料紙(和紙)をしきました。この紙の下には籾殻をしきました。紙の大きさは縦幅十間(約18m)、横幅6間(約11m)ありました。
すり鉢ですった墨を大きな桶に入れ、門弟一門とタスキをかけて袴の裾を高く上げ、藁一束でできた筆で鼻を書き右の眼、左の眼、口、耳、頭を書き、胸のあたりまで書いた後は蕎麦売を一束にした筆で毛書用として月代、髭を書きました。薄墨に棕櫚帚をつけくまどりとし、ぼかすのには手桶の水で棕櫚帚を用いました。彩色は顔料を薄く溶いて手桶に入れて棕櫚帚で塗り、これを門人が手桶の水でちらした。
西掛所の集会所の軒に沿って杉丸太の足場を作り、両方の端の丸太の上から滑車で吊り上げました。昭和の映画「北斎漫画」では、見物人が山門に上がり地面にある達磨図の全体像を見下ろして感嘆する場面となりますがまちがいです。実際には持ち上げていますのでおそらくは墨が垂れないように乾くまで待って持ち上げるまで昼までかかり、午後より見物となったと思います。
これ以外にも、護国寺で大画を画き、観衆に山門に上がらせて上から見たら大達磨が現れ皆驚嘆しました。両国回向院では布袋の大画を画き、その後に米一粒に雀二羽を画きました。映画「北斎漫画」ではこの時の様子を再現しています。
余談ですが福岡ドームでダイエーホークス戦が始まる前のイベントで有名な書道家の武田双雲がアリーナに巨大な紙を敷いて「鷹」の一文字を書きましたが、試合前の30分くらい前からのイベントで乾く時間も無く書いた後にすぐ持ち上げて持ち帰る際に墨が垂れてひどい状態になっていました。
文化十四年、丁丑十月五日、名古屋西掛所内に於いて、東都の画工北斎戴斗、半身の達磨の像を画く。此日見物の人、群をなす。某縮図の摺物、永楽屋東四郎が店にて商なふ。則ちこれを求めて、後日の談柄とす。北斎はその砌半年程、鍛冶屋町牧助右衛門墨遷の家に寓居す。
◆葛飾北斎伝エピソード北斎VS春好◆
北斎は長じて勝川春章の門人となります。高弟の勝川春好(しゅんこう)と仲が悪く、ある時春朗(北斎)が絵草子問屋の看板を画きますがこの絵を見た春好がこれを掲げるは師の恥となると引き裂いて捨ててしまいます。これに奮起した北斎は狩野派の画法を学び恥辱を晴らします。後日北斎は私の画法が発達したのは実に春好が私を辱めたからだと語った。狩野派に出入りするようになり師匠の春章より破門されました。
天明5年、名を群馬亭と改め、またその後に菱川宗理と改め狂歌の摺物を専業にしますが生活は困窮します。唐辛子売りを副業にしますが売れずにやめます。また柱暦を売り歩きますが浅草蔵前にて勝川春章夫婦と行き会い大いに面目を失いました。
ある時5月幟の注文があり、朱を溶いて鍾馗の図を画くと先方は大いに喜んで2両をはずんでくれました。困窮していた宗理はこの金を得て後は志を変えて朝早くより筆を取り遅くまで画き続け蕎麦二杯を食して就寝しました。
◆北斎VS狩野融川(かのうゆうせん)◆
寛政初年より山東京伝や曲亭馬琴の挿絵を画いていました。寛政5・6年の頃、狩野融川とその門人及び町絵師数名と日光神廟の修復に行き、宗理(北斎)は随います。融川は宇都宮で旅館の主人から絵を請われて童が竿を持って柿を落とすの図を画きます。
北斎はこの絵を見て、柿に届いているのに更に上に竿があり爪先立っているのはおかしい。と密かに評しました。これは融川の耳に入り、融川は童子の知恵がなくあどけない様子を描いたのにこれを誹るのは憎むべしと宗理を追い出しました。
この狩野融川は浜町狩野家を継ぎ法眼まで叙されますが、朝鮮へ贈呈する屏風を手掛けた時に老中に金泥が薄いと注文をつけられて納得いかずに帰りに腹を切ります。一旦は引き取って多少の修正をして再提出することを良しとはしませんでした。
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